充実?したかな・・・。

今日は休日なのに、久しぶりに午前中に起きた。それから朝食を取り、土曜日の授業の準備をした。授業の準備をするときにいつも思う。(果たしてこのことに意味はあるのか?)と。もちろん、それによって給与をもらっているのだから、準備を怠るわけにはいかない。それくらいの意識は当然あるし、生徒のために努力するのは別に苦じゃない。教えるのだって結構楽しんでいる。けれども、自分が塾講師を選んだのにはそれなりの理由がある。給料が良いからというわけじゃない。事実時給を考えるとかなり安いことは先輩や周りの人たちから聞いていたし、それは身をもって感じた。割に合わないのに塾講師を選んだのは、自分の将来のためだ。将来教員免許を取るために、たったの2週間教育実習に行く。そして免許を取り、上手く行けば卒業後就職だ。すると2週間しか学校の「授業」というものに触れてしかいないのに、いきなり授業を持つことになる。それだと授業を行うことに慣れるまで、下手をすると1年近くかかってしまう可能性がある。そんなことでは、生徒の信頼を得ることは出来ない。生徒の信頼を得ることが出来なければ、自分にとっての「学校」生活が充実するはずもないし、教員を続けていくのも大変だ。だから出来る限り良いスタートを切るために、その準備・訓練の場として塾を選んだ。その判断は今でも間違っていないと思う。しかし、高校をメインで教えることを望んでいる自分が、小学生中心の授業をしていてその効果があるかといえば、それには疑問が残る。確かに小学生にも上手く説明できるほどの説明力がつけば、高校でも役立つことだろう。だが、小学生と中学・高校生では対応の仕方が全く異なる。そう考えると、小学生中心の塾講師としての経験は、戦力とはなるだろうが、中高生を指導した場合の経験に比べると、著しく劣る気がする。それが勤務開始当初から不安要素だった。語学の友人も、同じ悩みを抱えていた。それを話して、今まで自分を(それでも大丈夫だ)とだましてきたことを改めて認識して、考えさせられた。春は(塾のチューターでは直接クラスを指導するわけではないので、あまり意味はない)と考えていたので、募集にも応募すらしなかったが、今思えば、受験戦争の真っ只中に身をおいているだけでも十分に価値がある気がしてならない。刻々と変化する大学受験情勢に対応できないのは、高校教師にとって致命的だ。それは就職してから身につくことかもしれないが、先ほども言ったとおり、少なくとも自分にとっては、一年目は重要な意味を持つ。出来るならば、高校生のクラス指導とまで贅沢は言わないので、せめてチューターとして働きたい。高校生に関わりたい。今の塾に不満を抱いているわけではない。むしろ皆良い人なので、やめることを切り出せるかどうかも不安なくらいだ。それでも将来への不安は消せない。転塾も考えているが、10人以上のクラスの社会を大学生のバイトに担当させてくれるような塾が存在するだろうか。それは自分で考えても生徒にとって良くない気がするくらいだし、中々見つからないだろう。特に日本史などは、生徒数が元々少ない上に社会科講師など吐いて捨てるほどいる。見つけるにはかなりの苦労が、そこで働くにはそれ以上の苦労が必要だろう。世の中は自分が思ったよりもはるかに厳しいようである。それでも負けない。絶対に。