何か違うよ

大学が再び始まって、充実しない(というか充実することが出来なかった)夏休みからようやく解放された。明日はサークルあるし、明後日は能登と鶴見の公共ジムに行く約束してるし、明々後日からは楽しみな教育学基礎講が始まる。楽しみなことはいくつもある。後期こそはがんばろうと思う。だけれども、心のどこかで冬休み(あるいは春休み)を欲しているのがわかっている。大学に行くことを楽しみに思う反面、大学へ行くことを拒否している。それは何故かわからない。大学への学費を出してもらっている親には申し訳ないが、あまり大学が好きじゃない。その理由がわからないから、少し良いところと悪いところを列挙してみることにする。

良いところ
・日本史の専門的な勉強が出来る。
・つまらなくても自分が存在すべき場所である。
・少ないけれど友達がいる。
・勉強とは楽しいものだ。

悪いところ
・一年次は日本史の専門科目が少ない。
日本史学と教育学と朝鮮語以外の授業が面白くない。
・ゼミや固定クラスがないので友達が少ない。
・本気で話せる友達がいない。
・遠い。

とりあえず今思いつくのはこれだけだ。では何がダメなのか。広い人間関係が苦手な自分にとって、欠点の4つ目はかなりのダメージだ。やはり人間関係だろうか。それに学問的な部分も不満だらけだ。日本史を勉強するためにわざわざ文学部入学したのに、日本史の授業が週1ペースだなんてバカげている。大学側への不満はあげたらきりがないのかもしれない。例えば一橋や中央では、一年次からゼミが選択できるそうだ。仮に好きなゼミがあって、そこに入ることが出来たとしたら、どうなっていただろう。きっと友達が何人か増えて、また藤山を例に取れば充実した議論とその準備が出来るはずだ。ゼミのデメリットは飽きてしまったときの対応とその課題であるが、そんなものは今欲しているものに比べれば大したものじゃない。前期の情報の授業だって、自分はパソコンが苦手で、担当教員が嫌いで、課題がおかしいほど出ていたにもかかわらず、充実した授業だった。前期で一番充実していた授業だった。それはきっと、一生懸命授業に取り組まざるを得なかった状況と、班員との協力関係や共同作業があったからだと思う。それがささやかながらも自分の心の支えだったからだ。

誰もが精神的に強い人になろうと望む。でもその強い人というものが具体的にどのような存在かどうかははっきりしない。当然ながらその強さの定義もだ。でも今日、その定義がつかみかけることが出来た気がする。

心の強さとは、心自体の強さよりも、むしろ心を支える棒の強さや本数が関係してくる。もちろん、心自体が弱い人もいるだろうし、それが病気であることだってあるかもしれない。その場合は心自体の強さの問題だろう。だが、普段普通に生きている人の心の強さはやはりそれをっさえる棒の強さだ。それはつまりどういうことか。自分の場合、充実していたといえる高校時代を終え、大学という新しい環境に放り込まれた(自らその道を選んだのだが)。高校だけが自分の人生であったわけではないが、高校までは外部とのつながりというものは無きに等しく、自分の心を支えてくれる数少ない強い棒が楽しい高校に通っているということだった。その強さは、友達関係や部活や勉強などの多岐にわたり、自分の心を安定させるには十分すぎた。そしてそれが当たり前だった。しかし、大学入学と同時に、高校という棒は一気に強度を弱め、また新たに大学という未知の強度の棒で支えられることになった。またバイトという棒も増えた。サークルもそうだ。だが、どれもこれも大した強さではなかった。特に一番の強さを持つべき大学棒は予想以上の弱さであり、それを自分の力で強くするのはかなり厳しいものがある。友達はがんばって作っていくことは出来るだろう。だが、授業はどうにもならない。「大学というところは自学自習の場だ」と言われるかもしれないが、それを確信する場や発展させる場がなかったとしたら、勉強する気持ちは格段に落ちてしまう。もしかしたらそれも自分の単なる欠陥かも知れないが、考えてもらいたい。

例えば部活で一生懸命に練習する。高校の頃に主だった部活に入っていた人ならわかるだろう。では一体何のためにがんばるのか。最終的には自分のためなのだが、目下の目標は、試合に勝つ喜びを味わいたいからだと思う。大会や試合がないのに、ただただ自分の強さを求めて精進することが出来るだろうか。自分には出来ない。

今の状況に直して言えば、部活というのが大学になり、練習は授業・勉強、大会・試合は授業・資格・ゼミということになる。練習は練習でも、授業というのは部活として行われる練習であり、勉強というのは自主練だ。自主練だけでは上手くなることはできない。公式練習があってこそ、実力が上がるのだ。なぜなら自主練には大きな危険が付きまとうからだ。練習方法から実行まで全て自分だけで行う。そしてその練習が確実に正しいものかどうかなんて事は、結果論でしか知ることは出来ない。公式練習の後に、正しい知識を身につけて自主練するのであれば、その確実性はぐんと増す。今はその公式練習がない時期なのである。さらには大会もない。

このような状況であるため、大学という棒はまだまだ細い。これが来年になれば専門科目が増えて、学問という面での強さは上がるだろうし、友達も後期で増えればその面でも強くなる。しかし、あくまで未来の話であり、今現在急に強くなるものではないのが大変なところだ。さらに、先日、一本の強い棒を失ってしまった。自らそれを弱らせておいて、失ったというのもおかしいことかもしれないが、それがあったので、今の自分は非常にふらふらしている状況にある。

こんな風に考えてしまうのは、自分の心の弱さを認めたくないからだろうか。そういった考えを無意識に排除していて、何か他のものに責任を押し付けてしまいたいからかもしれない。自分のことを理解するということは、なんと困難なことであろうか。