生と死

日本人は悲劇が好きだ。これは日本人に限った話ではないかもしれない。でも日本の悲劇とは忠義の果ての死、代表としては楠正成や忠臣蔵など、そのような悲劇を伝統的に好んできた。それは恐らく、儒教が日本に古く伝わり、それが人々の間に浸透していったことも大きいだろう。しかし、それだけではない、むしろそれはメインではないのだ。その証拠に儒教発祥の地である中国においては日本型悲劇の例は少ない。代表的なのは鄭成功の国姓爺合戦くらいではないだろうか。忠義の果ての死、これは劣勢であっても、死が確実であっても決して退かずに死んでいく。誰が言っていたか忘れてしまったが、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言っていた。死は惨めであってはならない。だから幕末にあれほど切腹が横行したのだ。新撰組の話を読めばわかる。忠義や名誉のために死ぬなんて、単なる無駄死にと言えるかもしれない。限界まで生きる努力をすべきだと言われれば、そうかもしれない。でも、ただただ生きているだけが大切だとは思えない。尊厳もなく生きているは、動物と一緒だ。どちらが正しいのかは決着をつけることは今日は出来ない。でもおいおい時間をかけて考えていきたい問題の一つではある。