社会的弱者を守るのは誰なのか。

広島県で、小学一年生の女児が殺害され、遺体が段ボール箱内に放置されるという悲惨な事件が起きた。日系ペルー人の男性が容疑者となっていたが、同容疑者はこれまで犯行を否認していた。しかし、今日になって突然これまでの主張を翻し、一転して犯行を供述した。

最近は、社会的弱者が襲われる事件が多発している。未就学児や小学生・中学生を対象とした殺人事件や傷害事件は、今やめずらしいことではなく、日本の治安状況の悪化が見て取れる。未就学児や小中学生は、犯罪に巻き込まれたときに、自ら自分を助け出す術を、身体的にも精神的にも持ち合わせていない。襲われたときにとっさに危険を察知して大声を上げたり、逃げ出したりすることを求めたとしても、それは大人にも難しいことであり、彼らには到底不可能なことだ。そこで自治体や各学校では、警備会社と契約したり、防犯ブザーを生と一人ひとりに持たせるなど対策を強化している。だが現実はどうか。学校内や通学・帰宅途中には襲われることは少なくなったものの、依然として犯罪は起き続けている。これは単なる「治安の悪化」という言葉で片付けられるものではないだろう。犯罪が増えたというのは、逆に言えば犯罪をこれまで防いできていたシステムが崩壊しつつあると言うこともできるだろう。つまり端的に例を挙げれば、近所関係の冷え込みだ。自分の隣の家の人がどのような顔をしていて、どのような家族構成をしているか知っているだろうか。さらにその隣の隣の家の苗字を知っているだろうか。恐らく首都圏や都市に住む人々の多くは、昔からすんでいるなどと言った場合を除いてほとんど知らないことだろう。それによって自宅の周りに不審人物がうろついていたとしても、それが近所の人なのか、不審人物なのか見分けることはできないし、関係はほぼ消滅してしまっているので、声を掛けることもない。悪い意味で誰でも入れる地域社会と化してしまっているのだ。非物質的な防犯システムが今一番必要なのだ。そのほかにも、被害者自身の意識の低さも問題としてあげられる。先ほど、学校が全校生徒に防犯ブザーを配っていると書いたが、それを使って遊んでいる子供がいるのだ。防犯ブザーは、いざという時に周りの人々に異常を知らせ、助けに来てもらうためのものであり、それ自体で犯人を撃退できるわけではない。日常から防犯ブザーの音を鳴らして遊んでいたら、その効果は一段と薄れてしまうことは言うまでもない。何のために自分が防犯ブザーを所持しているのかを理解させずに、ただ配ったところで何の効果も得られないだろう。その責任を怠っているのが、学校であり家庭である。彼らのモラルの低下も犯罪を呼び込む危険材料となる可能性だってあるのだ。その認識が決定的に不足している。社会的弱者を対象とした犯罪が多発するという背景には、決して単一の問題が存在するのではなく、潜在的な社会問題が有機的に絡んで発生していると考えられる。つまり、このような事件に責任をもって対応しなければならないのは、警察というよりもむしろ教育現場や地域社会の責任が大きい。我々は大いに反省すべきことがあるだろう。