このポンコツ野郎!

とりあえず自転車で旅行しているのに自転車が故障しすぎです。ギヤチェンジが出来ないし、途中でチェーンは外れるし、ペダルが回らなくなるし・・・自転車ってこんなに壊れるものだっけ?

さて、なぜこれほどまでに自転車が故障するのか考えてみると、数日前の事故が原因だと思うのです。だから自転車自体が悪いのではなくて、事故によってどこかが歪んでしまったのではないかと考えています。まぁどっちでも良いんですが。問題はいかにこの故障続きの自転車という問題を克服して稚内に向かうかということです。



事故は突然やってきます。旅行前は当然ながら無事故無傷で帰ってくるつもりでしたが、それは甘い考えでした。八戸まで約700キロ。毎日半日くらい自転車をこいでいて、事故にあわないほうが不思議です。しかも結構飛ばしているわけで、余計に危ないわけです。どんな事故だったのか書いておくことにします。



それは走り始めて4日目のことでした。前日、何とか仙台までたどり着き、その日は一関まで約100キロというそれまでの走行距離に比べると楽な距離でした。予定としては午後早い時間帯に一関入りして、中尊寺毛越寺などを見て回るはずでした。そのため、距離は短いながらも、結構急いでいたわけです。

それが、案外困難な道のりで、まず山がちな地形でした。先日も書きましたが、ロードバイクは大量の荷物を積んで走るための自転車ではないので、それに荷物を積みに積んで山道を走るのは非常に困難なわけです。それでイライラしながら進んでいると、途中で雨が降ってきました。幸い、仙台を出るときに少し雨がぱらついていたので、そのときにコンビニで合羽は買ってありました。

雨にも負けず、懸命に走り続けました。雨なので、ちょっとテンションも上がり気味で「よっしゃー!このまま一関まで一っ飛びだ!」くらいのつもりで走っていました。そして何とか山を越え、古川に入ったのです。

古川は比較的整った町で、道路の幅も広いし、店の数も多いところでした。車が多かったので、雨も降っているしこれは危険だということで、めずらしく歩道を走っていました。普段は車道を走ります。車には迷惑でしょうが、歩道はがたがたして走るのが大変なのです。

しばらく歩道を走っていると、道を大きくふさぐ形で笹が張り出していました。完全に歩道をふさいで、前が見えません。ただ、こういったのは那須を越えるときによくあったので、「またか・・・」と思い特に気にせず突っ込みました。しかも、「やっほーい!」と思いながら、顔に笹が当たると嫌なので、ヘルメットを前面にして下を向く形で笹に突入です。次の瞬間・・・



僕は地面を舐めていました。



自転車がカラカラと回り、後ろのかごの荷物が散乱し、前歯・右手首・右ひじ・胸部に激痛が走っていました。とりあえず恥ずかしいので起き上がり、自転車を立て直し、歩道の脇にそれました。まずは自分の身体の確認です。歯はぐらついていましたが、取れないのでOK!右手首は指が動くので問題なし!ひじは痛いけれど大怪我をしていたら怖いので見ない!ということで、身体は何とか大丈夫なことが確認されました。

問題は自転車です。「よーし、行くぞ・・・」と思い、自転車を押し出すと、なんと前のタイヤがぺしゃんこじゃあありませんか。ロードバイクのタイヤはカッチカチが普通なのに、ふにゃふにゃもいいところです。「これはパンクに違いない!」と思い確認すると、タイヤに(チューブではないです)ざっくりと亀裂が走っています。

果たして自分が何にぶつかったのかというと、道路によくある青い看板の柱です。笹を抜けた直後に柱があり、「やっほほーい!」と突っ込んだ直後に柱にぶつかったわけです。そして地べたを這いずり回ったわけです。

このとき、宮城県の役人に対して怒りがこみ上げてきました。何で笹切っておかないの?!危ないでしょ!宮城県死ね!と。途方にくれて、仕方がないので古川の自転車屋を探して歩き出しました。でもどこに何があるのかわからず、沈んでいました。仕方がないので郵便局でお金を下ろすついでに局員に自転車屋を聞いてみると、近くにあるよとのことで、郵便局から100メートルほどのところにある古い自転車屋さんにお邪魔しました。

そこのご主人は高齢で、はっきり言って何を言っているのかさっぱりわからないくらい方言を使う人でした。よくわからないまま、「はい」といい続けると、とりあえず見てくれました。そして「うちじゃ無理!」というようなことを言われました。500円かかりました。何代だよ!

またしょんぼりしながら歩き出すと、雨がやんできたので、iPhoneで検索してみることにしました。すると3件ほど見つかり、カタカナの店名のところに行きました。こういうときはカタカナに限ります。すると、見事にヒット!ロードバイクを修理してくれる店でした!

そこで修理をしてもらい、しかもおまけしてもらい、何とか4時間遅れて一関に向かうことになったのです。そこで転んでから初めて鏡を見たわけですが、泥だらけチェーンの油で顔を汚し、顎から出血していた自分はどう見ても不審者そのものでした。そしてその点については特に何も突っ込まれませんでした。

そうして一関に着いたわけですが、そこから故障の連続です。翌日盛岡に行くまでにチェーン外れる病を発病し、北上で自転車屋に寄ったら、なんとタダで修理してくれました!そして「頑張って北海道まで行けよ!」と応援されました。良い自転車屋です。

しかし翌日はギヤチェンジが出来ない病を発病しました。昨日の親切な自転車屋で習った修理テクニックを駆使して自力で直そうとしたら、1時間近く頑張った挙句、あきらめました。ただ、そこで見知らぬちょっと強面のおじいさんに「パンクか?」と聞かれ、「いや壊れちゃったんですよ・・・」という会話が始まり、東京から来たことを告げると、とても驚いていました。

しばらく修理を続けていると、そのおじいさんが戻ってきて、「ほれ」とデカビタをくれました。「これ飲んで頑張れよ!」と応援してくれました。感動して一瞬言葉につまり「ありがとうございます!」をなぜか二回繰り返してしまいました。いやー助け合いって良いね。まぁ自転車は直らなかったわけですが。

そうして今に至ります。今日は自転車屋にメンテに出す予定です。直りますように!頼むよー稚内までは行きたいんだよーそして出来れば帰りたいんだよ!というわけで、頑張れ八戸の自転車屋

自分探し4級

3日ほど前から、いわゆる「自分探し」的なものに出かけてみたわけですが、この3日間でわかったことがあるので、とりあえずここに書いておこうと思います。ちなみに、私は決して自分探しに出かけたわけではないので、その辺はわかっていただけると幸いです。手段としては「自転車で北海道まで行ってみよう」というとてもシンプルなものです。果たして何が分かったのかというと・・・



「そもそも自転車で旅をしても自分なんか見つからない」



ということです。誰だ最初に自転車旅行のことを「自分探し」なんて言い始めた無責任な奴は!慣れない奴が一日に100キロも自転車こいだら疲れて夜寝ちゃうわ!自分はここ3日間22時には爆睡です。いつ自分を探せというんですか。道路でですか?危ないでしょ!轢かれるわ!自分が亡くなるわ!

自転車をこいでいる間は特に何も考えていません。注意力散漫になると危ないからです。でも今日は比較的すいていた道があったので、歌っていました。でも歌詞が途中でわからなくなるものばかりで、やる気をそがれました。「俺の本当にやりたいことは何だろう?」などと複雑なことを考えていたら転んで死にます。歌っていたら通行人がいて恥ずかしい思いもしました。

それから自転車をこぐのは楽じゃない!まず尻が痛くなります。これは切れ痔になるのではないかと、リアルハチクロ(リアルなのはいつもそういうところです)になるのではないかと心配しました。しかし3日目を終えて、それはたいした負担ではなくなったのです。乗り方を工夫するだけで、ぜんぜん大丈夫です。ガードの入ったインナーをはいてはいますが、気休めとしか思えません。でも、無いと大変なことになる気もします。

そして尻の問題が解決したと思ったら、今度は脚です。左ひざが痛すぎます。それでなくとも筋肉痛で、自転車を降りても走れません。内出血もしまくりです。両手のひらと、ひざの内側、ひざ頭がいつの間にか内出血していました。かなり痛いです、これ。腹筋も背筋も鋭意筋肉痛です。

さて、周到な準備を重ねて今回の「自分探し」に至ったわけですが、やってみて初めて分かることがたくさんあります。

まず何よりも、荷物は全然いらないということ。初日に途中まで付いて来てくれた近江くんに、出発時の荷物の三分の一程度を持って帰ってもらいました。私服は一足先に全部帰宅しました。スポーツドリンクの粉も全員帰宅しました。本当に最低限で大丈夫です。とはいえまだたくさん無用の長物を抱えて走っているわけですが・・・

ここで、この3日間の行程その他をまとめてみます。初日、自宅の早稲田から祖母の家のある館林まで、距離にして80キロ程度です。毎日基本180キロを設定していた僕としては、楽勝すぎる距離でしたが、自転車で長距離を走るのは初めてだったので、「まぁ初日はこんなところでしょう」と考えていました。



結果、遠すぎ。



家を出たのは昼過ぎでした。大宮経由で館林まで。理想設定速度だった時速30キロで行けば、3時間で到着する予定でした。人生はそんなに甘くありません。時速30キロなんて無理です。それを続けるのなんて不可能です。言ってみれば、ボルトが100メートルを10秒くらいで走るから、1000メートル走だったら100秒で終わるじゃん!という感じです。

しかも6時をすぎると暗くなってきて、交通量も増えてきて泣きたくなります。しかも全然着かない、理想と現実の落差に失望し始めます。初日からこれです。2日目も大失敗でした。朝出発すれば、館林から郡山くらい(だいたい180キロ)は行けるだろうとふみました。前日の反省を全く生かしていません。那須塩原を16時半ごろに通過したので、「どうかなー?」と思っていたら、山がありました。自転車は平地用に作られています。歩きました。着きません。もう死にたいです。そうこうして白河について一夜を越しました。結局140キロ止まり。でもまぁ悪くはありません。

3日目は仙台まで170キロ、昨日の反省を生かして、6時半に白河を出ました。13時に福島につきました、ここまでで90キロ進んでいます。あと80キロ、行けるだろ!と思いましたが大間違いです。結局、仙台に到着したのは7時間後で、疲れ果てた僕は、理不尽に通行人に「死ね死ね!」と思いながらペダルをこぎました。これが自分探しの実態なのです。そして今に至ります。

眠いので今日はここまで!明日また頑張ります。それでは・・・

共感型と憧れ型

最近村上春樹の『ノルウェイの森』を読み直している。高校2年生くらいのときに初めて読んで、大学に入ってから1度読み直した。それで、3度目の読み直しをしているわけだ。この本は(まだ上巻なので何とも言えないけれども)つかみ所が無く、フワフワとした足場に立って書かれている気がする。何か強い信念だとか芯を持たないことこそがその魅力だと思うのだが、本来こういった本は好きじゃなかった。

これまで好んで読んできたのは、どんな形であれ、強い信念のようなものを持った人物が主人公の小説だった。城山三郎はわかりやすくそういった形を取る。代表作『落日燃ゆ』は広田弘毅の信念とその行動を感動的に描き出している。それが史実かどうかは別の話だが。三島由紀夫もパターンは違えど、人工的な愛を育むという、自然を信念の下に屈服させるような不自然な力強さがある。夏目漱石の作品の登場人物には、近代人特有の悩みを抱えながらも、必死にそれぞれの人生を生きる強さが見られると思う。

信念を持つ人間の行動は、それがたとえ迷いを抱える人間であったとしても、行動がぶれない。行動の上では試行錯誤しつつも、その根本は強い。そういったその人物の魅力に強く惹かれてきた。自分もそうなりたいと思って、どこか憧れをもって読んできたと思う。

確か『彼岸過迄』だったと思うが、主人公の兄は、自分が観念の人間であって、実践の人間ではないことを嘆いていた。涙を流して友人にそのことを告白するのだが、そこにすら必死に生きる、実践の人間になろうと懸命に努力する姿が見られるように感じた。自分の妻を信じることが出来ない彼はこの上も無く不幸なのだろうが、それを克服するために、見かけは惨めであっても闘いを挑んでいる。

あるいは、三島由紀夫の作品は、自殺で終わるものが多いが、その自殺も何かから逃れて自殺するのではなく、逆に何かを手に入れるために自殺するというパターンがある。『盗賊』の自殺はその類だったはずだ。『愛の渇き』では逆に愛を手にするために愛する相手を殺害するに至る。その結末はグロテスクであり、悲惨としか言いようが無いものであるのだが、彼らは後悔していなかったに違いない。

しかし、ノルウェイの森はそうではない。ふらりふらりと根無し草のように浮き世を流れる若者を描いている。主人公はある種の諦観を持っているように思うが、彼は多くの人を尊敬することが出来、それを受け入れることが出来る。誰よりも強い人間ではない。かといって強い信念があるわけでもない。何かを得ながら進んで行くのだが、それは計画的なものではなく、その場その場で得られるものを身につけて行くような形だ。

だから、読んでいてどこか不安になる。テーマが陰鬱なものであるという以上に、確固とした自己を持たない、そしてそれを強烈に求めようとしない登場人物に不安感を覚えるのだろう。そしてその不安感こそが、この作品の魅力なのだと思う。「こういう風に生きよう」というわかりやすい構図を示してくれないことで、登場人物との一体感を得られるのではないか。

もちろん合わない部分もある。恐らく、自分はノルウェイの森の主人公と上手くやって行くことは出来ないだろう。ああいった流れて行くような生き方、まさに一人での放浪の旅を彼が好む部分に現れているが、その生き方に憧れを覚えながらも、自分はもっと必死になって生きていきたいんだとも思う。

この本を読むと、自分の生き方を考え直したくなる。それはこれまでの生き方が間違っていたのではないかという不安に襲われることでもあるので、気軽に出来るものではない。生き方の決定が人生のすべてを決定するわけではないが、それなくして生きるのは難しい。理想を持たずにその日その日を過ごすには、人間はあまりに弱く造られている。もしかしたら自分だけかもしれないが。

もう「どう生きるか」などといっている年齢ではないのかもしれない。しかし、それを考えることを止めてしまった瞬間に、人間としての進歩が止まってしまう気がする。それはそれで恐ろしいことだ。現実に対応して生きることは不可欠なことではあるが、それは全てではない。そういった点を、人生のターニングポイントとなるであろう今年は、よく考えて行きたいと思う。

院生、高校生・受験生と話す。

その結果、少しは成長していることがわかりました。やっぱり5年の月日というのは長いものなのだと改めて実感。昔の自分を見ているようで、面白くもあり、恥ずかしくもありで、彼らにはぜひとも頑張って欲しいと思いました。やっぱり違う世代と話すのは面白い。親とも結構しゃべった。途中からは自分から話しかけに行くようになった。案外楽しかった。でも勉強する時間がない。

そして中世史の人と知り合った。彼はとても賢い人だった。話し方からそれがすぐにわかるタイプ。ああいったタイプの人間になりたいと思いながらも、どうしたら良いのかわからない。それから勉強に関しても大いに遅れている。これはもっと一生懸命勉強するしかない。鶴見先生タイプの博識を目指して今日も明日も頑張ろう。

何のために働き、何をして生きるのか?

この前、富士通インターンのESを出した。富士通のサマーインターンは就業体験というよりは自己分析や働く意義を考えさせるタイプで、ESの締め切りも結構遅い。なので、だらだらと日々を過ごしていたら結局ギリギリになってしまって焦ったわけだが、正直このインターンには結構行ってみたいと思う。他の就業体験型のインターンは行かなくて済むならば行きたくない。

その富士通のESでは自己紹介、志望理由、働く意義がそれぞれ200、400、400でまとめるように指示があり、字数の少なさに悩みながら頑張って書いた。一番書きやすかったのは働く意義で、一番難しかったのは自己紹介だ。自己紹介は何を書いたら良いのかわからなかった。学歴や保有免許などの資格のことなのか、学問のことなのか、はたまた趣味や性格を書くのか。わからなかったので、適当に資格と研究テーマを書いた。

自分は、働く意義とは、社会の中に存在する自分を確認することにあると思う。もちろん、生活のための手段として仕事をしないわけにはいかないし、もっと積極的に捉えれば自己実現の手段でもある。そういった要素も欠かすことは出来ないのだが、自分にとって最も根本にあるのが、社会的な自分の存在確認だと思う。

出来ることならば働きたくない。多くの人が一度や二度でなく思ったことだと思う。私も例に漏れず、あと1〜2年で社会に放り出されることを考えると、なるべくそれを先延ばしにしてしまいたいと思ってしまう。しかし、一方で、早く働かなければと焦る気持ちもある。

去年の夏、院試の勉強をするために、バイトを大幅に削り、実家に戻って大学受験並みに勉強していた。久々の一日10時間勉強だ。それ自体は苦痛ではなかった。英語の勉強はあまりしなかったし、日本史はどんどん新しい知識が入ってきて、毎日自分の頭の地図が書き換えられていった。むしろ、自己の成長を確認出来て、少なくとも専門をやっているときは楽しくて仕方なかった。

ただ、他方で社会に一人取り残され、置いてきぼりにされる恐ろしさは常につきまとった。実家に帰ったので、当然家には弟や妹がいる。彼らは朝から昼にかけて学校や遊びに出かけていき、夕方から夜にかけて帰宅する。それを横目で見ながら自分は机に向かった。誰とも会うことなく。

当然、勉強は他の誰のためでもなく、自分自身のためにするものだということはわかっていたし、将来のために必要なことであることも理解していた。それでも、一人で自分のためだけに生きているというのは、どこか人を不安にさせるものだ。つまり、自分の存在が自己完結してしまっていて、そこに精神的な意味で他者の存在を必要としないし、逆に他者から必要とされることもない。これは建前であって、人間は普通はそれでは生きていけない。しかし、だからこそ、自分は誰かを必要としているにも関わらず、それと接触する機会すら存在しないという状況になる。

社会で必要とされるということに関しては、なおさらそうだ。たかがバイトではあるけれど、そこでは確実に自分には役割が与えられていた。他の誰でも取って代わることの出来るポジションであったとしても、少なくとも働いている間は必要とされている。バイトがないことで、社会の中に自分の座る椅子がないように感じた。誰にも必要とされず、社会にも居場所がないような感覚に襲われた。

どのような仕事であれ、社会に貢献するようなことをしているならば、積極的ではないかもしれないが自分の居場所あるいはその所有権を自らに対して主張することが出来るはずだ。税金を払っている人間が誰にも気後れすることなくその国でしっかりと主張していくことが出来るように、働くことで社会で生きていく権利を獲得することが出来るのではないか。そう思った。

だから、自分は働かなければならない。自己実現などを求めるには、その土壌として安定した居場所がなければならない。それは意識の上での話だ。自分はやることをやっている、だから自分のやりたいことをやっても良いはずだ、となる。給食のメニューを改善して欲しいと主張したいのならば、まずは給食費を払わなければならない。その給食費こそが仕事の一面だと思う。

就職したことのない自分には、それくらいしかわからない。就職したら、きっと毎日のように「辞めたい!」と思うだろう。そして実際に3年と経たずに退職したとして、しばらくは解放感に満たされるだろうが、その後に襲ってくる社会の中で生きる自分の存在の無さに苦しめられるだろう。何かを為すには人生は短すぎると誰かが言った。そして同じ人が何も為さないには人生は長すぎるとも言った。何もせずに生きていくことは苦痛だ。

それが、自分を就職へと駆り立てる消極的な理由だ。積極的な理由ももちろんあるが、今のこの不安感は理想を追求するにはふさわしくない。もっとしっかりしよう。そして願わくば、取り替えのきく消耗品としてではなく、自分の能力に依拠した居場所というものを見つけるか作り出していきたいと思う。

インターン落ちる率はどれくらい?

その率は僕の場合だと100%です。2件中2件落ちたので100パーセントとなるのだが、近江辺りに言わせればそれは普通らしい。本当ならば、もっとたくさん出して、そのうち大きなのを1件くらい取るのかもしれないが、実はそこまでインターンをしたいわけではないので、その気になるのに苦労する。むしろ、しなくていいならばしたくないくらいだ。

ただ、自分の書いた文章が通らなかった点については、大いに反省すべきだろう。次の富士通インターンで最後にしてしまおうと思っているが、これは推敲に推敲を重ねるつもりだ。清水が去年買ったエントリーシート集も一応見てみることにしようと思う。

それはさておき、最近小説を読み出した。あまり時間もないのだが、文学に全く触れない生活というのはどこか潤いの無い生活な気がして少し不満だった。一日あたり1時間程度なら、いくらでも工面出来ようから、「忙しい」と偉ぶるのではなくて、文学的素養を高める努力をしたい。それに純粋に小説は読んでいて面白いので、ストレス解消にもなる。

というわけで、しばらく中断していた読書を再開するにあたって、出直しの一冊は何にしようかと本屋をふらついていたら、近頃話題の『蟹工船・党生活者』が平積みされていたので買った。今年は映画化もされるようで、注目度が高い。昔から読もう読もうと思いながら読んでなかったうちの一冊で、良い機会だった。プロレタリア文学というものがどのようなものなのかを知ってみたいとも思った。

蟹工船インパクトのある作品だったが、興味を持ったのは党生活者の方だった。なんというか、蟹工船は別の世界の出来事のように感じられるのである。誤解を招くことを恐れずに正直に言えば、『派遣切り』がテレビの中の出来事であるように、蟹工船労働者の困難な生活というものに感情移入が出来なかった。こればかりはどうしようもなく、意識せずに「客観的に」読んでしまった。その点、党生活者は自分の身に置き換えることが出来る、つまり何らかの認められない困難な壁に立ち向かう姿に共感することが出来、感情移入出来た。

これは生育環境に大きく左右されることだろうが、どうしようもない点でもあるのではないか。見えない世界のことを熱心に解かれても、結局は対岸の火事なのだ、と思う。それを消しにいけるような人間になりたいとは思うのだが・・・

週に1冊は読んで、じっくりと作品を楽しみたい。読書も勉強も、量が問題なのではないのだ。とりあえず、次の作品は『野菊の墓』、今夜から読み始めよう。楽しみだ。

今日の授業と福本和夫

今日は金曜日なので、鶴見先生の授業が二つあるだけだ。木曜日に比べれば遥かに心に余裕が持てる気がする。それはともかく、今日の4限の授業は面白かった。発表のシーズンが去り、再び鶴見先生の講義の時期がやってきたわけだが、今日のテーマは福本和夫のセルフエディターシップについて。福本和夫といえば、20年代?に福本イズムで一世を風靡して、それ以来聞かなかったマルキシストだが、授業ではその後の福本について扱っていた。

福本イズムが世の中(社会主義運動世界)を席巻して、共産党の政治指導役員まで上り詰めた福本であったが、コミンテルンから日本近代の捉え方を批判され、共産党から排除されていく。通史的にはここで福本の時代は終わり、それ以降歴史の表舞台に出てくることは無いのだが、もちろんそこで人間的にも政治的にも、運動的にも死んだわけではなく、強い意志を持ったまま活動を続けていた。

コミンテルンの批判から来る党からの追放のときに、福本はそれまで自分を慕っていた人間から裏切られる。その後、警察に逮捕され、15年の獄中生活を送ることとなり、1942年に出所する。それからは、運動から手を引くことにし(少なくとも見かけ上は)、民俗学の世界に入ってくる。そこで、それまでの文献を中心とする理論至上主義から、実直な史料をもとにした考証的な態度へと学問の姿勢を変化させていく。しかし、それは一つには特高をはじめとする様々な戦時下の制約から逃れるためであり、またもう一つはそれまでの自分の理論を、考証的なデータから補強するためであった。つまり、福本は全くその思想を初期から変えていないのである。そのような状況下で終戦を迎える。

一貫した強烈な思想を持った福本は、戦後になって日本共産党に入党する。1945年12月から共産党は活動を始めていたが、福本が入党したのは5年後の1950年である。それまでなぜ何もしてこなかったのか。むしろ、その一貫した思想を戦後に生かすべく積極的に活動していくべきではなかろうかと疑問に思った。それを鶴見先生に尋ねてみると、実に面白い答えが返ってきた。

まず、戦後間もない共産党のリーダーは徳田球一である。彼は先述した、コミンテルンの福本批判のときに、福本から離れていった一人である。つまり、福本からすれば裏切り者である。これを党・徳田の立場から見れば、また違った答えが出てくる。戦前の共産党は一度、福本を異端として排除しているのである。それを戦後になってリーダーとして戴くとすれば、それは戦前の共産党の判断は間違いであったと認めることであり、徳田からすれば認められたものではない。ある意味でメンツの問題だが、決して軽い問題ではない。

そのため、徳田は福本の入党は認めるが、選挙での福本の立候補地を鳥取に定めた。鳥取は保守王国であり、万が一にも共産党が勝てる見込みが無い土地である。いかに福本の名が全国に知れ渡っているとはいえ、鳥取で勝つことは不可能である。共産党の状態を考えれば、一席でも多く議席を確保したいはずであり、福本をしかるべき場所で立候補させれば確実に一議席を手に入れられるというにもかかわらず、鳥取からの立候補に押さえた。これは先のメンツの問題が大きく影響しているという。

この辺りが実に面白い。人間的で面白いのだ。左翼といえば、右翼とは違った意味で人間を人間として扱わないことがたびたびある。前に鶴見先生の成城大での講演で聞いた偽装結婚の制度も、全く人格を無視した非人道的な制度であると思うが、革命の実現という大義の前に個人の生きる意味を問うこと自体が馬鹿げたこととされていたのだろう。人間を鉄の規律で縛る左翼からすれば、上の徳田の行動はいささかそれを逸脱したものではあるまいか。もちろん、人間らしい意味で。

この組織における個人の人間らしさというのが面白い。客観的に分析すれば確実に「正しい」答えが導きだせるはずなのに、例えばメンツであったり好き嫌いであったりといった判断基準で「誤った」判断を下してしまうのは人間の性である。人間は「誤る」からこそ、個人でありうるのだと思う。歴史という客観的な学問の中に、主観的な部分を考えるというのは興味深い、やっていて不思議な気分になる。

最近、主たる興味が制度などの非人格的な部分から、それを造った人間の方に向いてきた。客観的に働く制度よりも、客観性を意識した個人の主観を研究してみたいと思う。そのためにはやはり個人に注目すべきなのだろう。歴史は人間の活動の積み重ねなのだから、人間らしさがなければ面白くない。美しい理論よりも、人間臭い方が良い。それを意識しながら、もう一度修論を考えてみようと思う。